
- 親鸞聖人は浄土真宗を開くにあたり、浄土の教え(浄土教)を源流とする流れを研究し、正信偈(しょうしんげ)という書物を書き記しました。親鸞聖人はこの中で、浄土の教えの本願はもとより、浄土の教えを磨き上げ、世に広めた7人の高僧についても触れています。ここでは、下記の図にある7人の高僧を親鸞聖人から遡ってご紹介致します。
- ■聖徳太子と法然上人
- 親鸞聖人は、比叡山で20年間、天台宗の修行をしました。しかし、どれほど修行をしても、煩悩をなくし清らかな心になって苦を超えることができませんでした。そこで、聖人は、自分の進むべき道を六角堂の久世観音に求めました。夢の中に聖徳太子が現れ、法然上人のもとに行くように告げられました。 「弥陀の本願は、もとより凡夫を救うために起こされたものであるから、信じて御名を称えるばかりである」との法然上人の教えを聞いて、たとえ悪道に堕ちることがあっても、上人の仰せに従ってどこまでも専修念仏するという堅い信念を持つに至りました。
- ■法然上人【日本】
- 法然房源空上人は、長承二年(1133)美作国(岡山県)に生まれました。法然上人9歳の時、夜襲にあって父は死にましたが、死に臨んで一人子の法然上人に「決して敵をうらんではならない」と遺言しました。法然上人は、父の遺言に従って僧になりました。15歳の時、皇円(こうえん)の弟子となり天台三大部を学びました。24歳になった上人は、奈良に赴いた折、比叡山とは伝統を異にする善導大師の浄土教の教え(称名念仏によって往生を得ることを説く)を学びました。善導大師の称名念仏一行のみによって往生を得るという教えは、叡山浄土教を捨てることを意味し、黒谷の別所を出ることになりました。 法然上人の教えが広がると共に、聖道門の教団との間に摩擦が起こりました。摩擦は次第に激しくなり、聖道門の教団から念仏停止の声が強まりました。上人は、門弟が言行を慎むことを誓いましたが、その中には、親鸞聖人も含まれていました。その後も念仏停止の動きが起き、ついには専修念仏は停止され、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後に流罪となりました。 建暦元年(1211)上人79歳、許されて京都東山に戻られましたが、翌年より老衰が進み、往生の前前日に、念仏の肝要を「一枚起請文」と呼ばれる一紙に記されました。80歳でした。
- ■源信和尚【日本】
- 源信和尚は、天慶五年(942)大和国(奈良県)に生まれました。やがて比叡山に登り、天台宗中興といわれる良源(912-985)に師事しました。源信は叡山の不断念仏、良源の観念念仏の影響を受けて、浄土教には早くから関心をもっていたようです。永観二年(984)に往生要集の執筆を始め、翌年完成しました。全体の組織は1に厭離穢土、2に欣求浄土、3に極楽証拠、4に正修念仏、5に助念方法、6に別時念仏、7に念仏利益、8に念仏証拠、9に往生諸行、10に問答料簡の10章よりなっています。 中でも、第4の正修念仏が本書の中心で、天親の浄土論の五念門に倣って礼拝、讃歎、左願、観察、回向の5つに細分し、観察門の下で「初心の観行は深奥に堪えず、・・・・」と論断し、初心者は天台宗の高度な哲学的修行が困難であるから、仏の相好を観察する色相観を行うよう勧めています。
- ■善導大師【中国】
- 善導大師は隋の大業九年、現在の江蘇省に生まれ、唐の永隆二年に69歳で往生されたと伝えられています。大師は幼くして西方浄土の有様を描いた浄土変相図を見て深い感銘を受け、浄土往生を願われたと言われ、成人してからは、諸国を旅して出離生死の道を求められました。こうして旅を続ける中で山西省の玄中寺で道綽禅師に出会い、「凡夫が本願力によって報土に往生を遂げる」という教えを受け継ぎます。当時の中国各地の宗派は、いずれも自力の力で浄土へ往生できるというという教えでしたが、善導大師は罪悪深重の凡夫も、阿弥陀如来の願力によって浄土に往生できる事を説きました。後述する道綽禅師の観音念仏(仏の姿を観ずる)とは異なり、南無阿弥陀仏を唱える事の大切さを説いています。これは当時の中国各地の宗派が考える聖道門からの“浄土教の独立”を意味し、善導大師は中国浄土教の大功労者と言えます。親鸞聖人は後に「善導独り、仏の正意をあきらかにせり」と讃えています。
- ■道綽禅師【中国】
- 先の項で触れた、善導大師が浄土教を中国で開花させるきっかけを与えたのが、この道綽禅師です。道綽禅師は北斉の河清元年に生まれました。それは後述する曇鸞大師が往生されてから20年後の事です。この頃の中国は動乱の中にあり、禅師は人格形成期に戦や飢饉、廃仏など多大な経験をしました。それは後の禅師の末法思想に大きな影響を与えました。師であった慧瓚禅師の滅後、曇鸞大師ゆかりの玄中寺に詣でられます。そこで曇鸞大師の石碑を見て深く感銘し、浄土教の教えに帰入されたといいます。禅師はそれまでに、戒律を守り、仏道修行に励む慧瓚禅師の門に入っていましたが、そこで明らかになったものは、煩悩を断ずることはもとより、悟りの智慧を得ることのできない己の無力さでした。当時の動乱の末法時代、無力な人間にふさわしい仏教がなければいけないと、禅師は考えるようになります。厳しい戒律を重んじる教えは、時代に合わず、ただ浄土の一門にあり、念仏を唱える事により悪人すらも救われると説いたのです。
- ■曇鸞大師【中国】
- 曇鸞大師は北魏考文帝の承明二年、北中国山西省に近い雁門に生まれたと言われています。大師は北中国阿弥陀仏の教えを人々に伝え、皆が救われる道を明らかにした人です。人々からは偉大な師として尊敬され、なかでも梁の武帝は、いつも曇鸞大師のいる方角に向かい曇鸞菩薩呼んで、礼拝したと言われています。曇鸞大師は菩提流支三蔵が無量寿を説く浄土の教典を授けたところ、これまで長年を賭して体得した不老長寿の仙術の本を焼き捨て、浄土教に帰依したと言われています。また曇鸞大師は後述する天親菩薩の書いた「浄土論」に注釈を施し「浄土論註」を著しました。その中で極楽浄土はすべて阿弥陀仏の本願によって出来たものであることを明らかにしました。また浄土に往生して仏になることも、浄土からこの世に還ってきて人々を助ける事もすべて阿弥陀仏の働きによるものであり、それらを正しく理解する信心をもつようにと説いたのです。
- ■天親菩薩【インド】
- 天親菩薩は後述する龍樹菩薩の教えを受け継ぎ、五世紀の初め頃、インドのガンダーラ地方、プルシャプラ、現在のベシャワールに生まれました。天親菩薩は若いころから大変優秀で、小乗仏教のすべての教えに精通していました。このように小乗仏教に精通していた天親菩薩は、大乗仏教を激しく非難したと言われています。そんな天親菩薩には無着菩薩という兄がいました。無着菩薩は小乗仏教の教えに満足できず、早くより大乗仏教に帰依し多くの書物を書き記しました。ある日、弟の大乗仏教避難に心を痛めた兄の無着菩薩は、その影響で病気にかかってしまいます。自分に原因があることを知った天親菩薩は、兄に大乗仏教の教えを請いました。聡明な天親菩薩は、すぐに大乗仏教の教えのすばらしさを悟り、自分のこれまでの行いを深く反省しました。大乗仏教は自分一人の悟りに安住する考え方ではなく、自分も他人も共に悟りに至るという教えこそが、真実であると説いています。天親菩薩は阿弥陀浄土に往生して自ら悟りを開き、浄土から「迷いの世界(現世)」に還って、自分も他人も救われる道を説いたのです、この教えをまとめたのが、浄土教の根幹をなす「浄土論」になります。天親菩薩は「浄土論」を書き記し、阿弥陀浄土への往生の道を明確にした初めての人と言えます。
- ■龍樹菩薩【インド】
- 龍樹菩薩の誕生を語る上で、お釈迦様(釈尊)の予言があります。お釈迦様は、ご自身の滅後700年の後、南インドに龍樹菩薩があらわれ、仏教のもっとも素晴らしい教え(大乗の法)を人々に広められるだろうと予言しました。その予言どおり龍樹菩薩はこの世に誕生します。お釈迦様の本意である阿弥陀の本願を、この世に最初に広めた偉大な人であります。龍樹菩薩は南インドのバラモンの家に生まれ、教養高く、当時のあらゆる学問を身につけ、また身を隠す術を使いこなせる人物でした。若き日の龍樹菩薩は、この身を隠す術をつかい、王宮に忍び込んでは宮中の女官にいたずらをしていたと言われています。ある日、3人の友と毎夜の宮中遊びを試みたところ、衛兵に見つかり友人たちは斬られてしまいました。このことを深く反省した龍樹菩薩は出家することを決意したと言われています。その後、持ち前の才を発揮した龍樹菩薩は、真実を明らかにするため様々な書物を書き記し、初歓喜地という高い悟りの境地まで達しました。しかし、そんな高い地位にあった龍樹菩薩さえも、阿弥陀の浄土に往生を願ったのです。龍樹菩薩の教えの特徴は、一般の凡夫に進むべき道を易行道としてお示しになられた事です。すなわち、難行道によって、悟りを開く事は遠く険しい道を歩いていくようなものである。しかし、阿弥陀の本願を信じ、念仏することによって、川を舟でわたるかのように簡単に悟りを開く事ができるという教えを広めました。「人間の計らいを捨て、ただ願力の舟に乗ずるべし」これが、後の浄土教の根幹を成す教えになるのです。




